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三人寄れば文殊の知恵

三人寄れば文殊の知恵

真言律宗とは

真言律宗という宗派がありますがご存知でしょうか?

真言宗の中で、戒律を重視する宗派と書かれています。
しかし、このような書き方だと真言宗が
戒律を重視しない宗派のように誤解されかねません(汗)

~~~~~以下引用~~~~~

当時、僧侶になるには、二百五十の戒律を
受けなければなりませんでした。

奈良仏教の諸派の僧侶は当然のこと、
その後に成立した真言宗もこの戒律を
授かることが僧侶になる条件でした。

ところが、伝教大師はこれに異を唱えます。

~~~~~中略~~~~~

二百五十戒は部派仏教に
基づく戒であり、大乗仏教の戒とは異なります。

それゆえ、伝教大師は
「大乗仏教の僧侶は大乗戒を授かるべき」
と考え大乗仏教の戒檀(戒を授かる場所)
を作ろうと考えました。

~~~~~以上引用~~~~~

全文はこちら

一般的な宗派の区分では、真言律宗は真言宗ではなく、
律宗に組み込まれて

律宗(真言律宗を含む)

と書いてあります。

しかし、その実体は律宗の大半は真言律宗ですから

真言律宗(律宗を含む)

と書いたほうが実情に近いかと思われます。

ただ、南都六宗の一つである律宗の方が知名度が高いため
やむをえない書き方なんでしょうか?

以前、僧侶になる前に「国分尼寺」をたずねたことがあります。

国分尼寺は奈良時代に各国に国分寺と共に
護国のために建てられた尼寺です。

尼寺というのはどんなお寺だろう?
尼寺というからには尼僧さんが出てくるに違いない。
ひょっとしたら、入るのを断られるかも・・・

期待しながら門を叩いたところ現れたのは女性でした。

この人が尼僧さん?と思いながら、

「ちょっとお話をお伺いしたいのですが・・・」

「では住職を呼んできます」

おお~ついに尼寺の住職さんが・・・

現れた方は男性でした!!!

「名前は尼寺ですが、今は国分尼寺といえども住職はほとんど男性です」

「やはり尼僧さんでは長年のお寺の維持が難しかったようです」

なんとなくがっかりしました。

たまたまその寺院が真言律宗でしたので、
真言律宗についても聞いてみました。

「真言律宗というのは誤解されそうないい方ですね、
むしろ自分達は真言宗西大寺派だと思っています。」

ちなみに西大寺は真言律宗の本山です。

「真言宗に近いんですか?」

「いえ、真言宗です。法要など本山はともかく地方では変わりません」

前置きが長かったのですが、

今日の研修会の題目はその真言律宗を開いた

「叡尊と忍性の志向した仏教とその社会救済事業」

~~~~以下引用~~~~~~

真言律宗を開いた興正菩薩叡尊は
戒律の復興を行いそれと共に
社会救済活動を行ないました。

その高弟で東国に活動を広げたのが
忍性菩薩です。

橋を架け、道路を作り、井戸を掘って
庶民の暮らしを豊かにしていきます。

さらに極楽寺に「救らい」施設をつくり
20年間に五万七千人を治療し、
四万六千人が治ったという奇跡を起こし、
生き仏と崇められていました。

その住持していたお寺の名前のごとく、
現世に極楽を出現させたのです。

~~~~以上引用~~~~~
引用全文はこちら

ということで期待していきました。

講師先生が真言律宗の僧侶なのに
ふくよかな方だったのはサプライズ!
(律宗と聞くとどうしてもやせた方を想像してしまうのは
偏見かもしれません)

講習会の内容もサプライズ!

「真言行者の多くが魔道に堕ちる」
「戒を持たなければ仏子(仏弟子)ではないから、
いくら三密修行(密教の修行)を積んでも
仏果(悟り)を得られない」

サプライズというより汗が出てきました(汗)

興正菩薩(叡尊)は90歳、忍性菩薩は87歳

戒を守り己を律することで長寿を保てるのでしょうか?

この二人による祈祷によって神風が吹いて、
蒙古を撃退したといわれていたのも当然かも知れません。

もう一つ重要なことが・・・

文殊菩薩を信仰して会おうと願うならば、
現世で必ず会えるそうです。

しかし、文殊菩薩は、経済的に困窮している人や
身体に障害を持つなどの姿で現われるそうです。

それゆえ、そのような人は文殊菩薩の化身であり
救わなければならない。

そのような教えのもとに
社会救済事業がなされたそうです。

四国でもお遍路さんは
お大師さんの化身といわれています。

近いものがありますね! コウユウ

私が高野山で行をしたときに、
同期に戒律を重視する「律宗」からやってきた
僧侶がいました。(真言律宗ではありません)

「律宗」は奈良仏教系の大乗の教えですが、
何故か真言宗と同じく密教の行を修めないと
僧侶になれないシステムだそうです。

私と同室で「鑑真和尚」の軸を掲げ毎日拝んでいましたので、

「真言の道場に来た以上は、真言の行をしなければいかん」

と怒って、「鑑真和尚」の軸を外させたところ、
宗教弾圧だと言われてしまいました(苦笑)

ちなみに彼はユニークな人間で、

「漢文が得意」と聞いていましたので、
私がある漢文について尋ねると

「いや~サンスクリット語なら得意なんですけど」

では、今度は別に機会にサンスクリットについて尋ねたら

「実はパーリ語なら詳しいんですけど」

「君、本当に律宗か?(苦笑)」

(サンスクリットもパーリも仏教に関係する言語です)

ところで、真言律宗を開いた興正菩薩はその生涯において、

戒を授けた人              9万7710人

講(説法でしょうか?)を行なった回数   10721座

行法を行うこと              41208座

殺生を禁じた場所             1356ヵ所

当時は、前世の報いによって、今世が決まるという
仏教的な輪廻の思想が広く信じられていました。

それゆえ、今世で貧しかったり、身体に障害を持っていたりするのは
前世の行いが悪かったと信じられたのです。

それゆえ、差別の対象にもなったわけですが、
興正菩薩や忍性菩薩はその人々に対して、
現世での実利的な救済を行なうと同時に
戒を授け、説法を行い、仏教的な救いを
与えていったようです。

当時は社会全体が荒廃していた時代でした。
日本では仏教はそれまで一部の支配者階級だけのものでしたが、
一般の民衆にも救いの手を差し伸べる動きが生まれてきました。

~~~~~以下引用~~~~~

高度な教学と修行体系を持った天台宗は
天変地異に苦しむ庶民に対して、
有効な手段を持ちえませんでした。

むしろ単純な教義とたやすい修行方法が
待ち望まれました。

浄土教団がまず天台宗から離脱し、
禅宗も袂を別ちます。

日蓮上人は多様な教えを抱え込んだ天台宗に対し
法華経の本義を説き、親鸞上人は戒を捨て
阿弥陀如来に対する確信を重要視し、
道元禅師はただ、座禅する形に仏を見いだして
独自の世界を作り上げていきました。

日々の生活に苦しんでいた当時の庶民に
その教えは広く受け入れられて行きました。

~~~~~以上引用~~~~~

全文はこちら

天台宗は教義を単純化することによって、
民衆を救う方向へ進んで行きましたが、
真言律宗は自らが戒を守り、行を修め、
その功徳を大衆に還元して行くことによって、
新たな流れを作ったともいえるかもしれません。

2008年03月29日


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